kazusshi’s blog

カンボジア生活を振り返ったり

カンボジアの歴史 フランス植民地時代〜ロン・ノル政権時代(1886年〜1975年)

 

近年急速な経済成長を遂げているカンボジア。約7%の経済成長を維持しており、2020年まで好調が続くと予測されています。

カンボジアの実質GDP成長率

2013年 7.43%

2014年 7.07%

2015年 6.92%

出所:日本貿易振興機構JETROhttps://www.jetro.go.jp/world/asia/kh/stat_01.html

また、世界遺産アンコール・ワット」でも知られる観光大国でもあり、今年9月からはカンボジアへの直行便(成田-プノンペン間)も開設されました。 

 

今回はそんなカンボジア

・フランス植民地時代

ノロドム・シアヌーク政権時代

ロン・ノル政権時代

について見たいと思います。

 

ご覧になる前にこの記事と深い関係があるこちらをお読みください。 


 

フランス植民地時代

 

1886年

カンボジアはフランス領の一部となり、フランスによって統治されていました。つまり、カンボジアはフランスのものです。

 

第二次世界大戦が勃発すると、日本軍がカンボジアからフランスを追い出します。しかし、日本が敗戦するとカンボジア再びフランスの統治下になりました。と、そんな時「フランスの統治下になってたまるか!」と、ノロドム・シアヌークが立ち上がります。

 

 

ノロドム・シアヌーク政権時代

 

1953年

シアヌークにより、カンボジアフランスから完全独立を果たします!当然、フランスを追い払ったシアヌークに対する支持はきわめて高いものでした。

 

当時、世界は冷戦状態にありました。つまり、アメリカが率いる共産主義社会主義陣営と、ソ連が率いる資本主義・自由主義陣営が対立していました。

 

独立を果たしたカンボジアがとったのは社会主義でした。一方、「社会主義国家となったカンボジアを倒さなければ!」とする国がありました。アメリカです。アメリカは「あるひとつの国が共産主義化すると、ドミノ倒しのように近隣の国が共産主義化してしまうこと」を恐れていたからです(ドミノ理論)。社会主義であるシアヌーク政権を倒すため、アメリカは右派であるロン・ノルという人物を支援します。

 

1970年

アメリカから支援を受けたロン・ノルは、シアヌークがモスクワ・北京に行っている隙をついてクーデター暴力的な手段による政変)を起こし、政権を奪取!国名をクメール共和国に改めます。

 

 

ロン・ノル政権時代

 

シアヌークから政権を奪取したロン・ノルは、激しい反ベトナムを押し出します。この頃からカンボジアベトナムは仲が悪く、反ベトナムを押し出すことで支持を得ようとしたのです。これにはベトナムも黙っていられません。共産主義であるベトコン南ベトナム解放民族戦線)がカンボジアに出兵します。

 

すると、アメリカ軍はベトコンが潜むと思われるカンボジアの農村部を空爆します。これにより数十万人の農民が犠牲になり、また、多くの教育施設が破壊され学校教育が機能不全に陥ります。爆弾投下は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が日本に落とした量の3倍であったと言われています。反ベトナムを押し進めたことによってこれだけの被害を受けました。当然、ロン・ノル政権に対する反発が強まっていきます。

 

この頃、政権を奪取されたシアヌークは、ポル・ポトが率いるカンボジア共産党クメール・ルージュ)と手を結びます。

 

1973年

アメリカ軍がベトナムから撤退します。アメリカから支援を受け続けていたロン・ノル政権は崩壊に向かいます。右派であるロン・ノル政権、実は汚職が深刻化していました。右派に期待できないと感じた国民の目は左派に向けられます。

 

1975年

勢力を伸ばしていたカンボジア共産党が、ついに首都プノンペンを陥落ポル・ポトは国名を民主カンプチアに改め政権の座につきます。